こんばんは!高尾です(^^♪
今夜は月がとっても綺麗にみえてます。
月を眺めつつ、神話学の発表の準備を進めています。
『竹取物語』ご存知ですよね(^^)
竹から生まれたかぐや姫が、やがて月の世界に帰っていくお話です。
今回の発表は、「自分の仕事と絡めながら、神話をひもといていく」というお題です。
で、様々な神話や昔話などを読み返しているうちに、ふと、あるクライアントさんが話してくださった物語を思い出したのです。
大切な方を亡くされて、それでもこの世で生きていかなければならなくて、その悲しみや苦しみの中から紡ぎ出した、切なくも温かい物語でした。こうやって、人間はかなしみを抱きながらも、ちゃんと生きていけるような力をいただいているのだな、、、と思わされる出来事でした。
そこで、『竹取物語』を深めてみよう!と思いついたのです。
時は平安時代初期。
当時(今も?)「月」の世界は、その満ち欠けが人間の生死の繰り返しになぞらえられ、永遠の生、不老不死を象徴するものとして捉えられていました。月は老いや死の恐怖から解放された、不老不死の無憂の世界だと憧れられていました。
日本人は太古から、月を愛でるという習慣があり、仏教・浄土信仰における阿弥陀如来の極楽浄土とも考えられています。
月は夜を意味し「死」を象徴した「あの世」であり、地球は「命」を象徴するお日さまであって、地上は煩悩から抜けられない穢れのある「この世」であると考えられています。
かぐや姫の舞台となる地球と月という二つの世界は、そのまま「この世」と「あの世」を表わしています。肉体を地球に捨て、清められた魂だけが月に召され、そして再び生を持ち地球に帰ってくるという、いわゆる輪廻転生の考えです。
そして、この「あの世」と「この世」を結ぶ「境界」として「竹」が登場するわけです。なぜなら竹は「再生・復活」「死と再生」を象徴するものと考えられ、かぐや姫が新たに生まれ変わり、新たな人生を踏み出す場所という意味合いと、通り道としての意味合いを持ちうるからです。竹藪の中では、あっちとこっちの世が混ざり合い、様々なできことが起こっているようです。
このように、相対する二つの世界があるからこそ、互いの違いを意識し、その存在を肯定しあえる関係となるのです。月の世界に憧れを持ちつつも、人と人との温かい思いやりといった人間らしさあふれるこの世を肯定し、ここで生きていくことの尊さを物語っているのでしょう。
かぐや姫が置いていった「不老不死の薬」を焼き捨てた場面では、永遠のいのちをいただくよりも、別れをかなしむこと、時に苦しみに悶えること、のように、この世を生きる人間にしか味わうことのできない感情や、限りある命を生き切ることの運命を受け入れることができたのではないかと思われます。日本人という民俗の血流には、遥か昔から引き継がれてきた、このような普遍的な死生観が流れているのかもしれません。憂いがあるからこそ喜びを感じることができるのです。命に限りがあるからこそ、その尊さ、愛おしさを感じることができ、懸命に今を生きることができるのではないでしょうか。そのことにかぐや姫が気付かせてくれた、という解釈もまた、神話を読み解いていくうちに気づくことのできる面白味の一つかもしれません。
(参照:『竹取物語』研究 ーかぐや姫の罪と罰をめぐってー 岡崎 祥子)
こんなふうに『竹取物語』をひもといていくと、子供の頃に読んだ「かぐや姫」とは、全く異なる世界観を垣間見ることができます。なかなか面白い発表になりそうです(^_^)/
今日は、サロンでファミリーコンサートのリハをやってみました。
20年目にして初めて映像を取り入れようと思ったのですが、これがなかなか思うようにはいかず・・・練り直しです(T_T)
プログラム作成中!
タピオカミルクティーとケークサレ、アジアンスイーツの準備も着々と・・・
後は曲の完成を待つのみ🎶
って、それが1番大変なんですけど(^.^;