悲愛の扉を開く〜若松英輔「魂にふれる」〜

こんばんは!高尾です(^^♪

阪神淡路大震災から24年。
あの日、あの時、お腹の中にいた息子が、今年2回目の年男を迎えました。
季節が24回、巡ったことになります。
震災後、半年経って訪れた故郷は、すっかり変わり果てていました。
大好きな今津線沿線にはブルーシートが張り巡らされ、神戸の山手は、ホテルも異人館も近寄ることさえできない壊滅的な状況でした。

それでも、神戸の街は再び立ち上がりました。
でも、、、どんなに街が再生しても、大切な人が生きて戻ってくることはありませんでした。

「記念の石は建てるな。ただ年毎に
薔薇を彼のために咲かせるがよい」

オーストリアの詩人、リルケが晩年に書いた詩「オルフォイスへのソネット」の一節だそうです。

記念碑を建てると、人は、いつかそこに刻まれた言葉を忘れてしまう。でも、花を植える者は、起こったことを決して忘れない。花が、ぼくらにその出来事を語りかけてくるからだ。花、それは死者の魂だ、君も「花」と対話することができるはずだ。

〜若松英輔著『魂にふれる』より〜

この著書は、若松氏が東日本大震災に寄せて書かれたものです。
「大震災と生きている死者」という副題がついています。

今日は、その中から一節をご紹介したいと思います。

『死者は自分の始めていたさまざまなことを、自分のあとに生き残った人々に、もしこの人々がいくらかでも内面的に結ばれ合っていたとしたら、続けてやりとげてくれる課題としてゆだねるのではないでしょうか。(リルケ「エリザベート・シェンク男爵夫人への手紙」)

ぼくらの課題、それは生きることだ。そして他者と悲愛によって結ばれることだ。そのときには困難が付きまとう。そのときには、祈ろう。祈りとは、願うことではない。むしろ願うことを止めて、沈黙の言葉を聞くことだ。〜中略〜
死者は、「課題」のなかで、君たちとともに生きる、ひそやかな同伴者になる。
死者と生きるとは、死者の思い出に閉じこもることではない。今を、生きることだ。今を生き抜いて、新しい歴史を刻むことだ。
これからも死者は、悲愛の扉を開け、訪れる。君が、君自身の生を生きることを促すために、大きくその扉を開け放つ。耳を澄まそう、扉が開く音が聞こえるだろう。』(「魂にふれる」より引用)

肉体は滅びても、その魂は花となり、課題となって、思い出となった過去の中ではなく、我々と共に今を生きている、と若松氏は言っています。魂となったその人と生きるという、新しい世界を生き抜き、その歴史を刻むことが、死者と生きるということの意味であるとも言っています。
耳を澄まし、こころを研ぎ澄ます。悲愛の扉が開く音、そして死者たちの沈黙の言葉を聞くために・・・

阪神淡路大震災が24年前に起きたこの日に、東日本大震災の被災者と遺された人々に向けられたこの鎮魂歌とも思える著書を手に取り読み始めたのも、なにかの導きがあったのかもしれません。この前年に、若松氏は奥様をご病気で亡くされています。多くの死者と、その魂とが、若松氏の悲愛と共鳴し、共振したかのように感じられます。まさしく、魂と魂とがふれあったのでしょう。
自分の死を経験した人はこの世には存在しないけれども、大切な人の死を通し経験したことによって、死を語ることはできるかもしれません。それがいずれは、大切な人の魂にふれることになり、共に生きていく、ということに繋がるのでしょう。だからこそ、研ぎ澄まされたこころと耳とで、彼らの言葉たりえない沈黙の言葉を聴きたい、、、、と祈るのです。

 

 

 

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