こんにちは!高尾です(^^♪
今年の冬は殊の外寒いです❆
勤務先の地元の皮膚科には、しもやけで来院する方がチラホラ見受けられます。私も子どもの頃、すきま風吹き荒ぶ木造校舎で足先が冷え切り、指が痒くて痛くて、でもやっぱり痒くて、、、授業中に上履きを踏みつけては痒さを凌いでおりました(;_;)
様々な暖房器具にあふれている現代でも、しもやけはまだまだ健在のようです。
それと、火傷の患者さんや、転んで怪我をしたり、指を切って来られる方もなぜか増えています。しかも縫うほどの大きな怪我をされる方が少なからずもいらっしゃいます。
身体が寒さで縮こまっているからでしょうか・・・
どうかゆっくりと身体をほぐしてあげて、痛い痛い思いをしなくてすむようにいたしましょう!!
そして、身体と同様に寒さでコチコチになってしまっているこころも、ゆったりとほぐしてあげましょうね(*^^*)
ところで、「手紙寺」ってご存知でしょうか?
ここは、江戸川区にある、創立1200年もの長い歴史を誇る證大寺(承和二年西暦835年発祥)の二十世住職である井上城治様が、2017年に千葉県船橋市の御坊(船橋昭和浄苑)に設けた、故人に宛てて手紙を書く空間です。
井上氏は、「故人を想像しながら語りかけること、それは自分自身と向かいあい語りかけることでもあり、それこそが故人に対する本来の祈りであると考えます。」と語っておられます。そしてまた「時空を超えて想いを届ける手紙を通して、大切な人と向き合い語り合うことで、こころが楽になり、前向きに生きる力を回復する場所を目指しています」とも。。。
まるで、グリーフケアのカウンセリングサロンのような存在だと、私は勝手に想像しています。
手紙をしたためることと、言葉を紡ぐこと。きっと、想いは同じなのではないかと・・・
不安なとき
一歩を踏み出せないとき
自分の想いに自信を持って
進みだそうと強く思うとき
大切な「あの人」に
手紙を書くと
ひとりで考えているときよりも
正直に 丁寧に
自分の感情と向き合うことが
できます
年を重ねて気付く
大切なひとへの感謝の気持ち
「あの人」がいなくなってから気付く
もっと伝えておけばよかったと思う気持ち
想いや
言葉にしておきたかったことを
手紙にする
別離の先に続く人生に
手紙は時や場所を超えて
想いを伝える力を持っています
誰も知らない遠い場所で
なぜか心が落ち着き
素直な気持ちを吐露できるように
日常からほんの少し離れた
小さな非日常の場所
手紙寺は
そんな静かで
穏やかな存在でありたいと
そう思っています
「手紙参り」は、もう会うことの叶わない、「あの人」に向けた手紙。
様々な思いを、心の中の「あの人」に向けて書くことで、あらためて気づくことがあるのではないでしょうか。。。
「ごめんなさいと書くつもりが許しを得た気がして、ありがとうと書きました」
この体験談に井上氏は、「故人の喜ぶ顔、やさしく見守る顔が目に浮かぶようで、すばらしい供養になった」と感じられたそうです。
そんな手紙を書いて手紙寺のポストに入れると、「お焚き上げ」という形で浄土に配達され、「あの人」に届けられるそうです。
「ラストレター」は、私から「あの人」への最後の贈り物。
別れは突然かもしれないし、最後に会うことも叶わないかもしれない。
だからその時が来る前に、遺される大切な人たちへ想いを手紙で残しておく。
ラストレターを記すことは自分自身への問いかけや、大切な「あの人」と向き合う時間にもなります。
(このラストレターは、自分が亡くなった後、大切な方に贈られます。)
(引用/参照:https://tegamidera.jp/)
これは、来たるべき時に備えての「予期悲嘆=グリーフの始まり」と言えるかもしれません。出会った瞬間から、お別れの時へのカウントダウンは始まっているのですから・・・その時になって慌てないように、伝え残すことがないようにと、その時のことを思って、こころ静かに穏やかに綴られる文字は、逝くものにとっても、遺されるものにとっても、こころの拠り所になるに違いありません。
慌ただしい日常から逃れて、静かな空間で手紙をしたためる。この非日常な空間で自分と向き合ってみると、「死」というものを通して、ひょっとしたら、いつもの自分(と思い込んでいる自分)とはちょっと違う自分と出会うことができるかもしれませんね。
先日急逝した友人のご主人さまにお手紙を差し上げたところ、丁寧なお返事を頂戴いたしました。
そこには、彼女の最期の日々の様子や彼女への想いが、温かな眼差しで綴られていました。とても悲しい出来事ではあったけれども、あらためて彼女と家族になれたことへの感謝の気持ちや喜びを噛みしめながら、文字を書き連ねられたであろうことが想像できました。私自身も、このようなご家族に見守られながら最期の時を過ごし、今はどこからかご家族のことを見守っているであろう彼女の存在に安堵し、当初抱えていた苦しみから少し開放されたように感じています。
井上氏の語られているとおり、「手紙」は「祈り」なのかもしれません。この祈りを捧げた時、人は「救われた」「赦された」と感じ、一歩前に進むことができるのかもしれません。