こんばんは!高尾です(^^♪
まるで梅雨のような鬱陶しい雨の日が続きます。
五月晴れって言葉ありませんでしたっけ??というくらい、澄み渡る青空がどこかへ隠れてしまっています。
逗子の山の上では、雨風が嵐のように吹き荒れています🌀
とても残念なことに、自死のニュースが続きます。
一昨年も同じようなことがあり、グリーフケアに来られる方からも、そちら側に吸い込まれそうで怖い、、、というお話が何度か出ました。
自死は、なにか一つの要因というよりも、様々な要因が絡み合って起こってしまいます。たまたま何かがきっかけとなることもあるでしょうが、その多くは、こころの病によるものだと言われています。症状のひとつに希死念慮が挙げられる以上、これはもう、周りがどんなに気をつけていても、残念ながら食い止めることは難しいのかもしれません。
誰しもいつもいつも幸せいっぱいなわけもなく、時には「消えてしまいたい」とか「死んでしまえばどんなに楽になるだろう」とか思ってしまいます。そう思ってしまうのはとても自然なことで、それはなんとか今の状況から抜け出したいと切に願うからにほかなりません。
でも・・・
玉置さんが講演会でお話してくださったように、この世は諸行無常。ずっとこのままずっと同じ、、、ではないのです。望む望まないにかかわらず。
だから、じっと嵐が過ぎ去るのを待つというのもいいかもしれません。背負った荷物を足元におろして、膝を抱えながら抗わずに待ってみる。やがて嵐が過ぎ去った後に、一筋の光が見えてくるかもしれません。
かなしみと向き合うということは、とてもとてもかなしい行いです。だからこそ、先延ばしにして向き合うことから逃げてしまっても、それは仕方のないことなのです。でも、もしも膝を抱えたまま半年ほどが過ぎてしまったとしたら、自分の力で立ち上がることが少し難しくなるかもしれません。当たり前の喪失悲嘆の症状から、こころの病に移行してしまわないためにも、かなしみと向き合う勇気を持っていただけたら、、、と思います。
人間が致死率100%である以上、生まれ出た瞬間から死へのカウントダウンが始まります。
それが、人として生まれた以上決して避けることのできない運命であるとしたら「大切な人との出会いはお別れの始まり」なのかもしれません。
でも・・・それはかなしいだけの人生なのでしょうか。
「こんなにも、別れが悲しく狂おしいほどに思えるほどの人に出会えた人生が、どうして虚しいはずがあるであろうか」と、若松英輔氏は著書の中で言葉にされています。日野原先生は「亡くなってからの方が、妻がより近くに居るように思える」と仰っておられました。
どうしたら、そのような思いに至ることができるのでしょうか。きっと、とことん悲しんで、愛(かな)しんで、美(かな)しんだからこそ、その先に見えてくるものがあるのだと思います。「かなしみ」は、決して避けるものでも、悪いものでも、ダメダメなものでもないのです。「かなしみ」は、その先に味わうことができるであろう豊かな人生へと導いてくれる、大切な存在なのではないでしょうか。。。
それを想う時、私はどうしても竹取物語を思い出してしまいます🌕
別れがあるからこそ、それまでの時間が輝くのかもしれません。それはなにか特別なことがあるということではなく、ありきたりの、当たり前の日常に感謝しながら大切に生きることで輝き出すのでしょう。別れがあるからこそ憂いがある。竹取物語のテーマでもあります。
私の長距離通勤中のお楽しみは「読書」。いつも温かい気持ちにさせてくれる、原田マハさんの本が大好きです❤
今読んでいるのは『本日は、お日柄もよく』。
表題からして、なんとなくおめでたい物語だと思いきや、突然のパンチが👊 不覚にも涙がポロポロと溢れてきてしまいました(T_T)
予想通りの披露宴でのスピーチの一コマ。新郎の友人による、彼のご両親様のエピソード。お母様を亡くされた後のお父様の優しい御言葉。
「ご結婚なされて、一番よかったことはなんでしたか?」
「深いうまみのある人生を、あいつと一緒に味わえたことかな。」
「ときにしょっぱくても苦くても、人生の最後のほうで、一番甘いのが、結婚なんだ。」
「お父さまも愛されたフランスの作家、ジョルジュ・サンドは言いました。あのショパンを生涯、苦しみながらも愛し続けた彼女の言葉です。『愛せよ。人生において、よきものはそれだけである』」
まぁ、お日柄もよく、、、の物語なので、結婚式に纏わる話で始まりましたが、パートナーに限らず、愛する誰かに出会えた人生は、深いうまみを味わうことのできるよきものであり、そんな人生が、たとえかなしいお別れがいつか訪れるとしても、虚しいはずはないのです、ね。。。(*^^*)