立ち上がることだけが・・・

こんばんは、高尾です。

今年も8月12日が巡ってまいりました。
年々新聞で報道される紙面の大きさが小さくなってきていますが、それでもちゃんと1985年8月12日に起こった出来事を伝え続けてくれています。

あの日、空に飛び立ったまま、そのまま星となられてしまった520名の方々のご遺族の多さを思うと、どれだけのかなしみがこの地に溢れていたことでしょうか。。。
そして、38年という月日の長さを思うと、すでにあちらで再会されている方も多くいらっしゃるのではないかと、安堵する気持ちにもなっております。

ケアの現場ではよく、「このかなしみが消えてなくなる日は来るのでしょうか?」「どうしたらかなしみを乗り越えることができるでしょうか?」「忘れられる日は来るのでしょうか?」と尋ねられます。

多くの方々からお話を聴かせていただく中で強く感じることは、愛情とかなしみは背中合わせであり表裏一体だということです。大切な存在であったからこそ、喪ってしまった今、深いかなしみが胸に押し寄せてくるのだと思うのです。
だからこそ、かなしみを消してしまおうとか、忘れてしまおうとか、かなしんでいるご自分を否定する必要などないのです。それほどまでに大切に思える人と出逢うことができたご自分の人生の意味を少しずつ言葉にすることによって、いや、言葉にすることができないような深い思いがこの世には存在するということを知ることによって、大切に思う気持ちとかなしみとが溶け合っていくのだと思います。そこに、乗り越えるべきものなどないのではないか、と私は思うのです。

御巣鷹山で散ったたくさんのいのち。そして、遺された人々が流したたくさんの涙。そして、その後のたくさんの様々な人生。
美谷島さんのように、息子さんの死と向き合い、メディアを通して彼の死を無駄にはしたくないという思いを伝え続けることのできる方もいらっしゃいます。その一方で、体調を崩されたまま、その後の人生をずっと床に伏せておられた方も存じ上げています。どちらも、その方の魂が望まれた人生です。

PTGという心的外傷後成長を目指すこともグリーフケアの大きな意義のひとつではありますが、「早く人生を終えてあの世で愛する人と再会したい」と、それだけを望みギリギリのところでただ息をしているだけ、という生き方も、ケア師は時に受け容れていく柔軟さと強さが必要とされるのです。

かなしみのどん底で生きていくことでしか救われない魂もあるということ。立ち上がることではなく、それを望まない向き合い方、生き方もあるということ。なにもできないことへの無力感を感じつつも、その人生観にただただそっと寄り添うということ。これもまたケア師のあり方なのです。

それでもやっぱり、少しでも光のある方へ・・・と望んでしまいます。少しでも笑顔になってもらいたい・・・とも願ってしまいます。でも、それがクライアントさんの思いではないこともあるし、なにがなんでもそうならなければならない、ということもないのです。

Be-ingでは「こうでなければならない」ということはありません。
あくまでも、クライアントさんの「こうありたい」「こうなりたい」の気持ちを大切に、お話を聴かせていただく場所であり続けたいと願っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です